top of page

Blog

山門下乗(さんもんげじょう)


こんばんは

こころと身体のセラピストゆうです(*^-^*)

最近、自然のことなどをテーマにした記事を書いていますが、造園家の高田さんが明長寺で配られている小冊子の内容を紹介してくださっていたのでシェアします。

近年、神社仏閣に足を運ばれる方も多いように思いますが、その中でもエネルギーの強いところに行くと、身体で感じるその土地の力や空気感。

その土壌の磁場ということもあるのでしょうが、その神域を守られている方々の土地や自然に対する畏敬の念や、諸々の想いなども宿っているように思います。

便利さにかまけて現代に生きる私たちが、1日も早く取り戻さなければならない大切なことを伝えてくださっていますのでお読みいただけたらと思います。

以下、高田さんの投稿より引用 ~

・・・・・・・・・・・・・

今日は事務所にて、「月刊 住職」という雑誌の取材。

月刊住職とは、、、それにしても、、、いろんな雑誌があるものだ・・・・

取材内容は、川崎大師表参道沿いの由緒寺院、明長寺で取り組んでいる環境再生の取り組みについて。 明長寺の住職の想いはハンパではない。

明長寺では、今後、山門から先の車の乗り入れが禁止となります。それにあたっての住職の想いを小冊子にして、参拝に訪れる方々に配布されています。

小冊子の内容、ここで紹介させていただきます。ぜひ皆様に読んでいただきたいと思います。

こんなお寺さんが増えれば、日本の環境も心も、どれほど取り戻せることだろう。

・・・・・・・・・・・・・

以下、月間住職⑩本文より抜粋

『 山門下乗(さんもんげじょう) 』

来年春彼岸より山門内への車両乗り入れが禁止となります。

山門の向かいに当社駐車場が完成したのでご利用ください。山門とは結界であり、それより先は聖域であることを意味します。古くから大名、公家でさえ山門をくぐる際は馬や駕籠から下り、一礼するという習慣がありました。

それを山門下乗といいます。

かつての日本人は山を神の済む聖域とし、ある地点以上は禁則地としていました。

入山するときは身を清めるなどの細心の配慮をしてきたものです。

仏教伝来以降、多くの寺院はこうした聖域を守るために配置されていきました。

ですから寺院には山号という呼び名があります。例えば天台宗の本山延暦寺は比叡山が山号になっています。平地に建立された明長寺も恵日山という山号がついています。

すなわち境内は、恵日山という聖なる山の一部であるわけです。

こうした聖域も経済成長、利便性優先の流れによりその境界は無視され、強引な道路開通や土地開発などによって荒れ果て、失われていきました。

この流れは現在も加速度的に進んでいます。例をあげたらきりがありませんが、リニア中央新幹線の開通は大きな問題です。

東京大阪間を一時間で移動できるようにするために、南アルプスをはじめとする多くの山にトンネルが掘られます。掘削された土は谷に捨てられ環境に不可逆的な影響を与えます。

当然豊富な地下水にも影響を及ぼし、周辺の多くの寺院では枯れる事でしょう。

また、田畑へ供給される水も当然減り、生活が困難になる人も出てきます。更には乗客は免疫機能に影響を及ぼすレベルの電磁波を浴びると言います。ここまでhして早く移動しなければならない理由があるのでしょうか。

おそらく開発にかかわる人間たちの一時的な経済的潤いのために進められているのでしょう。

お釈迦さまは心穏やかな生活をするために『知足』すなわち『足る事を知る』の重要性を説いています。ほとんどの国民は現行の新幹線で十分満足しているのに、このような事業が次々と進められて行きます。

こうした時間的なつながりを無視した『今だけ自分だけ』という考え方が子供達をはじめ、多くの未来の他者から自然環境を不可逆的に奪っています。

悪意は無くても結果そのようになっています。『世界』という言葉は仏教用語です。

『世』は過去、現在、味蕾と時の移り変わりを意味し、『界』は東西南北の空間的な広がりを意味します。

現代社会の世界観はこの時間性がすっかり忘れられているか、非常に短い単位でしか考えられていません。

その昔ネイティブアメリカンは重要な決断をする時、まず先祖たちへの思いを巡らし、次にその決断が七世代先の子どもたちにどのような影響を及ぼすかを考えたと言います。

『センス・オブ・ワンダー』で次のように書いています。

『 子供たちの世界はいつも生き生きとしていて新鮮で美しく、驚きと感動に満ち溢れています。

残念なことに私たちの多くは大人になる前に澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力を鈍らせ、あるときは全く失ってしまいます。

もしも私が、すべての成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』を授けてほしいと頼むでしょう。

この完成は、大人になるとやってくる倦怠と幻滅、私たちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。 』

この『センス・オブ・ワンダー』は江戸時代までの日本人は大人になっても失わずに持っていました。

これは花鳥風月を愛でる数々の歌などから読み取れます。

また幕末に訪れた西洋人は『虫の声ひとつあれば、優美で繊細な空想を次々と呼び起こすことのできる国民から私たち西洋人は学ぶべきものがある』とも言っています。

明治時代に人間と自然を分ける、対立させる西洋的な考えが入ってきた事によりこうした素晴らしい感性は失われてしまいました。

そして工業化、産業化に猪突猛進していき現在に至ります。

本来、日本が世界に誇るものは経済発展でも工業化でもなく、大人になっても失わなかった『センス・オブ・ワンダー』とそれを育んだ豊かな自然だと思います。

こうした感性を呼び戻すためには、町の景観は非常に重要です。

野原、雑木林、池などの土地開発者から見れば無駄とされる場所が、子供をはじめ人々の情操や健康を養う場所であることが今の町造りからすっかり抜け落ちてしまっています。

『 景観十年 風景百年 風土千年 』 という言葉があります。

美しい景観を作り、人々が生活してゆく中でその町の美しい風土が生まれ、そのまま郷土や国を愛する気持ちに繋がってゆくということです。

空き地ができるビとルや駐車場になり、電柱が立ちならぶ風情のない無機質な町からは、このような感情は生まれません。

ヨーロッパのように厳しい景観条例を設けて、かつての緑豊かな生活空間が日本に戻ってくることを切に願っております。

まずは寺院が健康な植林の手本を示し、美しい景観を作っていかなければなりません。当山の境内も一日中もしの声が聴こえる環境になってきました。

生活空間の中に聖域が存在するという意識を復活させるためにも、山門下乗のご協力を宜しくお願いいたします。

令和元年 秋彼岸  恵日山 明長寺 ( 月刊住職⑩ )

・・・・・・・・・・・・・

『 かつて、大規模な土木造作は仏門行者が行いました。河川、道路、田畑、水路、井戸大規模建築に至るまで、土地を安定させて未来永劫に豊かで安全な暮らしの土木造作は本来菩薩行だったのです。

日本古来の神仏習合の営みの中で培われた仏門行者は、人の都合を自然環境の営みの中に溶け込ませる頃合いをよくわきまえていたので、彼らには常に、道筋が見えていたのでしょう。

無我の境地で、ただ天地人への無限の慈愛の中で、神仏と一体になって、衆生のため、生きとし生けるすべてのいのちの営みと調和する人の営みのため、土木事業に打ち込んだのです。 』

神社やお寺に行くと、参道なども清掃が行き渡っており、清らかな空氣感を感じることができると思います。

樹齢数百年という御神木にもお目にかかることができたりしますが、高田さんがおっしゃるように、こういった聖域を守って下さっている方々が “ 神仏と一体となり、生きとし生けるすべてのいのちの営みと調和する人の営みのため ” というところが守られているからなのでしょうか。

やはり、街中を歩いている時には感じることが出来ない雰囲氣がありますよね。

そして、すべてのものは、『 愛と調和 』 でできているといいます。

物や私たちの身体もそう、動物も植物もなにもかも自然界に存在する全てもそう、そして宇宙も 『 愛と調和 』 で出来ているといいます。

はせくらみゆきさん は、 愛 = 天意(あい) であり、宇宙にある法則性は

“ あらゆるものは生成化育発展消滅を繰り返しながら調和の方向へ向かう = 天意(愛) ”

であり、

“  共にありて共に栄える ➡ 愛・調和・互恵・創造 ”

“ 原子の波動・・・天意(愛) ➡ 陽子・中性子・電子 ”

であり、すべては内なる顕れであり、愛も憎しみも、混乱も暴虐も。そして、喜びもすべて内にあるといいます。

“ いのちの本質は喜びである ” と。

私たち人間は、この “ いのち ” が、人間だけに特別に備わっているかのような振舞いをしてきてはいないでしょうか。。

恐怖・混乱・虐待といったコントロールゲームの社会は、ある程度の進化しか許されていないともいいます。

今は本当の意味で、本質的な部分に立ち返るタイミングであると感じています。

ロバート・レッドフォード/ Nature Is Speaking 「Redwood / セコイア杉」

NATURE IS SPEAKING

~自然は語る~

自然を守ることは、動植物や森や海を守ることだけではない

自然を守らなければ、困るのはわたしたち自身なのだ

忘れてはいけない

自然は人間が登場する遥か昔、45億年以上前から作られてきた

そして自然は人間がいなくても、進化を続ける

想像してみよう

もし自然が言葉を持ったら、何を人間に語りかけるだろうか?

彼らが見てきたことや希望や恐れについて…

話してくれるに違いない

人間への忠告も…

コンサベーション ・ インターナショナル・ジャパン

Follow Me
bottom of page