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見える世界と見えない世界 ~ 礒さんのお話から


こんばんは

こころと身体のセラピストゆうです(*^-^*)

今回のお話しも、前回に引き続き熊野の神官である礒さんのお話し会で先日お聴きしたものをシェアします。

お聴きした話の流れの中の一部を抜粋しています。

氣の世界や古神道に触れられたことがある方は入りやすい内容と思いますが、あまり馴染みのない方には掴みづらい部分もあるかもしれませんが、この世界の理に触れた内容となります。

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日本に居ながら私たち日本人は、血統的に世界中の色んなDNAを持っていて、どこかありえないような国境をまたいだ価値観の違いを受け入れる力を持っている。

日本人にとって一番大事なことは、二元性にはまった時に両方手放す日本人が強さを発揮することが出来る。

迷ったときには両方を手放すと、第3の選択がポンと現れる(高次の選択)

3が揃うと12が揃う~というような数の進み方をする。

3が1と2に分かれる。 

神の世界では数字は1から9しかない。

全部そろっているという、いずのめの状態を十字架で表す・・・これを十とも言う。

ことのたり・・・ことが全部足りている状態。

キリストでいう十字架・・・前から見ると十字架だけど、横から見ると六十(?)  

この形のことを ことのたり と言う。

ことが足りる時に、本当に霊的なことが分かっている人は、熊野の御朱印のように初めに見えない中心と外側を覆うスペースが出来る。 

ここのことを靈(0:レイ)いう 宇宙における数は、レイとタリを入れれば、

レイ(0)・1・2・3・4・5・6・7・8・9・タリ(10)

これが発生した時には、いのちが生まれる為には、陰と陽の両方のエネルギーが同時に生まれないといけない。

ゼロからタリまでが、ある配列で成立すると、逆の違う方向の対象の波が発生する。

タリ・9・8・7・6・5・4・3・2・1・レイ  

なのでレイは一番外側であり一番内側であるということ。

両側11、これが全部そろって回り始めたときの最強のいずのめ、魂が発動している状態のことを11+11で22・・・フジは晴れたり日本晴れ となる。

( ★ 参考: 石上神宮の日文(ひふみ) ~ ひふみ祝詞を言靈学で解説しています )

熊野は常に、見える世界をみたら、見えない世界に何があるのかを考えるというのを教えている。

見える世界の方が後から生まれる、レイが先にうまれるから。

そのスペースの中に何があるか見に行くようになると、神社に行ったときに見えない世界が見えてくるようになる。

御神木をみると一定のねじれを持っている。

ねじれているということは、この神社の御神木を取り巻く空気の移動は、渦を巻きながら移動しているのだということが分かる。 

氣の世界で先に渦を巻いている・・・イザナキ、イザナミと出てきたのは御神木の方。

2つが合わさってキミになる。

禊の祝詞からイザナミを消しているので、調和的なものは生まれてこない。

見える世界は、実際にあって見えてるものと、視覚に入って見えないものに分かれる。

見える世界の見えてない部分を見に行くためには、常に死角になにかあるという発想が必要になる。

何かあるかもしれないからずらす。

意識をずらす。 

身体もずらす。

意識をずらすと見えないものが見えてくる、はなっから見えていない世界は、見えているものをみることによって、見えない世界を創造する力を養う。

それは、うず・木の渦が個々にあるんだというのがちゃんと読みとれるか。

これを意識していると、氣の渦に法則性があることに氣がつく。

渦を巻いてる木の配置に法則性がある。

見えていない世界にも、見えている現れのすぐ横にあって、見えてる世界をつくる作るために見えない世界にあるものと、見えない世界の法則性をつくっている世界がある。

これが4つの世界、陽の陽と陽の陰、陰の陽と陰の陰、この4つが1つでいのちが生まれる。

そのうちの1つしか私たちは見て来なかった。

見える世界の見えている部分だけ見て、すべてを判断してきたという世界がある。

熊野に教えを乞うて入った時に(礒さんが)、とにかく初めの段階で一番叩き込まれたのが、自分の意識が全てをつくり出すということ。

体現すると分かりやすい世界で、特に自然界に生きているいのちは、全て法則性を受け入れて本能で生きているから、意識としてどっちが(人間と比べて)高次のレベルにあるかというと、間違いなく動物や植物や虫たち。

法則性を生きる、場合によっては自分がえさになってしまうことも受け入れている。

そうやって、壮大な循環の中の一部であるということを認めている動物たちのことを、自分たちは今まで下だと思ってきた。

人類は霊長類の長だとか言ってきて、霊長類を傷つけて、自然を破壊して、ちょっと間違っちゃってた・・・というところに徐々に入っていく。

熊野でやってきた神事の中で、修行と言わない祓い清めの行、修行より厳しい修行で、ひたすら石に触っている修行で、石の声を聴くというのがあった。

でも聴こえないと思っているから聴こえない。

本当に今までの意識を変えていくプロセスがその中に入っている。

石はしゃべらない、しゃべれと言っているけど(師が)、本当の修行の趣旨が何かあって、一義的に石としゃべるなんていってるんだな~素直に石としゃべればいいだけなのに、どうでもいいことを考える。。

何が本当の目的なのかな、師匠は本当は何をしようとしているのかなど考え、はなっから石としゃべる気持ちがなく思考の世界に入っている。

熊野の修行の凄いところは、弟子を一人育てるのに自分(師匠)ももう一度同じ修行をするやる。

額を石につけた状態で、1日14時間の間1回だけ休憩をとっていいという修行。

山奥の磐座を触っていて、ほぼ裸で人が通れば、人からどう見られるかというところ、石と話せる訳がないという固定観念、そういったものを解いていく。

解こうと思うとほどけない、狙うとその意識に入れない。

何日も経っても話せないから、ある意味どうでもよくなる。  

話そうとする事にも話そうとしない事にも、本当の意図が何処にあるかというのも考えなくなる、初めのうちは早く終わらないかなと思っていたのもどうでもよくなる瞬間があって、ある時から自分の中が静かになってきたという感じになる。

そうすると手が感じ始める。 

ただ、感じていることを感じるままになってくると、石の中が温度差によって石の中の水が動き始めるのが分かる。 

クジラみたいな鳴き声が聴こえたり。

疑いよりの知りたい~などの意識が石に向かっているので、世界が違うところに行く。

水がのぼっている時の音を聞き、じゃあ下っている時の音はどうなんだろうと思うと、石がその音を聞かせてくれる。 

色んな情報が石から入ってくるようになる。 

手が敏感になって、繊細なレベルで感じられるようになってくると、手は第2の脳だから、脳はこれまでの教育や食生活によっていかれちゃっているけど、手は使うほど本能が蘇ってくる。 

手を使って本能を取り戻す。 自分が話せないと決めているというのを乗り越えるだけなんだというのを掴んだ。

引用ここまで

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私たちは、この世に生まれてから誰かがつくった色んな “常識” というものにある種汚染され、知らず知らずの間に自分でも氣づかない色眼鏡を装着した状態でこの世の中を生きています。

思考の世界が優先の状態が何十年、或いは何百年、もしかしたらもっとかもしれませんが。。

自然と調和して生きている世界の先住民族と言われる方々は、思考よりも宇宙と響きあっている魂の感じるままに生きているのだと思います。

現代に生きる私たちは、あまりにも自然とかけ離れてしまい、 人間のいのちが一番尊い というような大いなる勘違いの世界を特に戦後は生きてきているように感じます。

私は、自然と宇宙と響きあった生き方をしてゆきたいです。

ジュリア・ロバーツ/ Nature Is Speaking 「母なる自然 / Mother Nature」


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