宗教に固執し押し付けてくる親
“ 宗教の根底にある『聖なる息吹』を見いだせ ”
あなたは牧師や宗教的指導者だろうか?それなら、あなたが人間のつくった神学的教義からどれだけ自由でいられるか(大勢の人が後生大事と神学的教義にしがみつき、狭い世界に生きている)、
その度合いに応じて、そして『聖なる息吹』にどれだけ自分を開くかという度合いに応じて、権威をもって語るものになれるだろう。
それができれば、あなたは預言者の研究をするのではなく、自分自身が預言者になる道を行くだろう。
その道は誰にでも開かれているし、あなたにも開かれている。
“ あたらしい宗教の時代が始まろうとしている ”
人が形骸に飽き、わたしたちの教会が空になっているので、目先しか見えない大勢の人たちはよく、宗教は死にかけている。
宗教が死にかけている?ほんとうに生まれてもいないものが、死にかけることがあるだろうか?
全世界の人間の魂が必要としているのは、古い既存の宗教について熱弁を振るわれることではなく、これまで感じたことのないような温かくて力強い神の息吹がしみ渡り、人々を魅了するのを感じることだ。(ジョン・パルスフォード)
朝の息吹に木々が喜び、自由に育っていくように、神の息吹のもとで一人ひとりの心は真の才能を開花させる。
その変化は当人にもわからないほど大きく、『神の息吹』によって開かれ、呼び出された自分のパワーに驚嘆する。自分が無上の存在であることを発見し、未来には想像できないほどの驚きが待っていることを確信する。
その時あなたは、外に宇宙があるように自分の中に神が存在する、という確証を得るだろう。
あなたの内なる神の体験、神における限りない希望が、世界や自然についてのどんな外部的、表面的な体験よりもますます近しくなり、ますます明確になるだろう。
人生の扉を開く『万能の鍵』
ラルフ・ウォルドー・トライン著 より抜粋
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今では家族誰一人として所属していないけど、私がまだ幼い頃、両親はある宗教団体に所属していて、必然的に子どもたちも会員となっている状況だった。
小さい頃から半強制的にその団体の会合に参加させられたり、お経を唱えたりという状態が続いていたが、よく居眠りをしていたことを思い出した( *´艸`)
ウンチクを語るのが好きな父からは、色んな宗教観や輪廻転生などの生死観、見えない世界の話なども耳にしていたので、スピリチュアルなことを学ぶきっかけとなるベースは子ども時代に育まれていたのかなと思うので、その部分に関してはありがたいと感じる。
ただ、色んな宗教にありがちな、自分のところの教えが正しい、最高の教えである、あそこは教えが低い、間違っている・・・というような、比較・批判・優劣をつけるという話をよく耳にすることがあって、もういい加減うんざりしていた。
子どもの頃は、そうなのかと思っていた部分もあったと思うが、大人になり自分自身が自分で興味を持ち、色んな方々にもお会いして、自分の目や耳で確かめ感じてきた中で氣づいたことは、その組織に所属している必要性は自分にはないし、1つの宗教に固執している必要もないのだなということ。
それぞれの宗教で伝えられていることは、表現は異なれど言っていることは同じなのだろうなということ。
宇宙の真理は『愛=天意(あい)』と『調和』なのであれば、宗教戦争のようなことだって起こらないはずだし、ましてやあっちが悪いこっちが正しいとかそんな話にはならないはず。
ちなみに私の両親は、当時入会していた組織は脱退しているけれど、現在も1つの宗派にそれぞれ所属をしている。(あっ、私のプロフィールをまだ読んでいない方は こちら をお読みいただけると背景が分かると思いますのでよかったらどうぞ)
そして、特に父からは今でも会うたびに、その宗教の素晴らしさなどのウンチクを聞かされています。。。
両親の批判をするつもりは全くないのですが、こういった類の話しをされると、分かりやすい例えでいうと、私の中では、肥満しているエステティシャンに『うちのエステサロンは痩身効果が抜群によいと好評で、本当に綺麗に痩せられますよ。』と言われているのとあまり変わらない。
親からしてみたら、子どもの幸せを考えて親心で色々と勧めてくるのだと思うのですが、そういった事に関して、自分の考えや価値観を押し付けてほしくないのです。
色んな経験をして色んな活動をされている方々にも沢山お会いしてきましたし、私もそれなりに学び経験してきましたから、今の時点での宗教に対しての捉え方など私の想いや考えというものがあります。
今年の正月に父と食事をした時にもこの話になり、父の話しをしばらく聞いていたのですが、改めて私の思いや考えを伝えてみたんです。
返ってきた父言葉の内容を要約すると、結局、今まで他の宗教批判をしてきたのと全く変わらないのです。。。
今回は母とも少し突っ込んだ話をしてきたのですが、父のことを許せていないというのです。(母もずっとある宗派に所属しています)
何の為の信仰なのか?
そういった言動をすることで、相手の心にどんなプラスの変化を起こすことが出来ると思っているのか?
折角、素晴らしい教義があるのに何故なのだろうか?・・・と。
色々と思うところはあるけれど、改めて色んなことを振り返ってみたり見つめなおす良い機会となりました。
私の周りには特定の宗教などを持たずとも、その方の才能を発揮して、周りの方々の人生に変化を起こしたり、健康にしたり、笑顔にしたり、氣づきを与えたりして色んな意味で豊かに過ごされている方が何人かいらっしゃる。
やっぱり、ひとに何かをおススメするのであれば、自分自身が参考にしてもらえるようなキラキラした生き方・考え方を持っていたいなと思うし、まだまだ発展途上だけど『身・口・意』を一致させた生き方をしていきたいなと思っています。
そして特に大人は、これまでの古臭いやり方・考え方などで、誰かや何かを縛り付けてコントロールするということをするのではなく、自分自身が心豊かにイキイキと、やりたいことをやってそれぞれの才能を生かして生きている。
そんな姿をただただ子どもたちに見せてくことで、子どもたちがそこから自然と学び選択していくのではないのかなと思うんです。
だから宗教とかに固執しなくても、それで十分なんじゃないかなって思うんです。(注)もちろん宗教を否定するつもりはありませんし、今のタイミングで救いとなったり必要な方もいらっしゃると思います)
宗教が動のとか、あーだこーだと理論理屈を語るのであれば、まず自分がそのような生きざまで示していただかないことには納得いかないというものです((+_+))
家族って一番学びが深い関係性ともいうし、特に身内に対してはシビアな目で見てしまう傾向があるように思いますが・・・自分がこの両親を選んで生まれてきた以上、いい部分もそうでない部分も客観視するということを忘れずに生かしていこうと思います (^^)/
なんだか、まとまったのだかよく分かりませんが、今回の話しはこのあたりにしようと思います。。。
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私たちのもの見方や考え方って、結構親や身近にいる大人の刷り込みの影響が大きいんです。
それがその人の今後の人生の価値判断基準のベースにもなってくる訳なので、やっぱり子どもと接する大人の責任は重大です!
今まで生きてきた中で知らぬまに形成されてきている周りを見渡す色眼鏡。。
その価値基準は本当にあなた自身のものですか?心地よいものですか?
もしそうでないのならば、今のあなたにとってその色眼鏡は必要ないのかもしれません。
そのあたりのお話しは、またじっくりとお伝えしてゆこうと思います。
ゆう